信じることについて考察してみた。
色々と突き詰めていくうちに聞こえてきた言葉がある。
個は我を持ち、己を現すためにあるものである。
全には、我がない。
我を持たせ、自由に現すために個を全が創造し、全は姿を消した。
そう現されるが、全は消えておらず、個の背景の全てとなった。
信じることとは?
個の中に全はある。
我の現すものは、全てにおいて全の経験なり。
全ての個は、いずれ全に帰するものなり。
創造されたすべてのものは、全の経験となりけり。
信じることは、個の世界観によって違いが生じる。
〇迷妄を信じる者は、迷妄を信じたという経験になるだけ。
〇他者を信じる者は、他者を信じたという経験になるだけ。
〇自分を信じたものは、自分を信じたという経験になるだけ。
どの経験が己らしく生きられることか。
その選択をする意志が、己の世界の礎となる。
もし、旅の途中で「違う」と感じたならば、「違う」選択をする自由がある。
ただそれだけだ。
つまり、信じるとは、己の内にあるものを見つめて、それが私の真実だと言う勇気にある。
自分以外の者の共感を得られなくとも、それが真実だと言えるか?
仏陀の言った真実は、2000年を超えても信奉者がおる。
イエスの言った真実も同じで在ろう。
マホメットもそうだ。
現存した全ての聖者と呼ばれる者たちもそうだ。
ただ、その言葉の奥にある彼らの真実を己の真実と勘違いしている者たちも多い。
彼らの言葉を己の奥に置いてみた時、本当にそれがそうであると理解し、悟った者は、己の真実というであろう。
彼らがそこに行きついた経緯や、経験を知るものはいない。
彼らとて、今のお主たちと始まりは同じであった。
己の内にある真実に疑いをもち、己と神に問い続け、己の真実に従い、あらゆる経験を積んだのだ。
現し方は違えども、皆同じことを言っているではないか?
私が全に投げた「信じること」への全からの回答は以上だ。
神は思考に働きかける
常々思ってきたことがある。
スピリチュアル系図書を読むと、著者の世界観でスピリットを現わしている。
表現されたスピリットを「正しい」「間違い」としているのは、自分自身である。
二元性を超えて、一なる意識で読み取ったとき、著者の本当に言いたいことが読めてくるものだ。
著者は、書いたことを信じているだろう。
その内容に共感するものも、反論するものもいるだろう。
私自身も、ブログを通じて、自分の真実を語っているに過ぎない。
頭の中に湧いてきた言葉、経験して分かったこと、ただそう思ったこと。
意識が膨張して、気づいたら宇宙に漂っていることだってある。
そこで掴んできたことを言葉にして、表現しているときもある。
このブログの冒頭も意識飽和状態で掴んできた言葉だ。
つまり、
神々はいろんな手段を通じて、我々に常々語っている。
それは、思考に働くもの、直感的な閃き、現実の中に見せてくるもの、ただの妄想の中にも。
それが、神からのメッセージであると受け取るか否かは、その人次第だけど。
信じること
自分が感じたこと。
そう思ったこと。
それは、自分の中から湧いて出た自分の真実であること。
誰に共感されなくとも、間違いと指摘されても、信じてみること。
時に、疑いたくなるようなことが湧いて出てくることもあるけれども、過去の観念がそうさせているかもしれない。
未知に向かっている自分であれば、余計に葛藤することもある。
信じることに、良い悪いはない。
信じることは、期待することではない。
信じることは、頑固にみられることもある。
信じていることに、「違和感」を感じたら、見直してみればいい。
神を信じるならば、見ている全てに神を見ればいい。
人を信じるならば、全ての人に自分を見ればいい。