便利という観念をどう変える?

誰もが本当の自分を知りたい

スピリチュアルは、言葉を知っていても、内容まで踏み込んでくる人は少ない。

自分には関係ない世界だと思っている。

特殊な能力として、自分にはない能力だと思い込んでいる。

だから、能力があるという人には興味本位で話を聞きたがる。

私の経験上、みんな「知りたがり」なのだ。

 

学生時代のOB会に行ったときも、私の仕事を知るや否や、いろんなことを聞いてくる。

主護霊はどんな人で何か言ってない?

前世で何してたかわかる?

一斉に注目の的になって、ついでに伝えたいことがある主護霊たちも『言ってくれるの?』的な反応になっているし。

逆に、ドン引きで怪訝な顔をする人もいる。

酒を飲んでいる席で、しかも本気で捉えようとしていない雰囲気丸出しで、伝えるだけ無駄かと思いもしたが、、、

問題を抱えている先輩を捕まえて、「○○がどうで、○○に問題があって、○○なことで悩んでいて、○○なんでしょ?」と突っ込んでみた。

先輩は、いい具合に酒を飲んでいたが、ピタっと止まって、顔が青ざめた。

先輩は、「俺、、、お前にそんなこと話したっけ?」って言うから、「観ろって言うから観ただけよ」と言った。

これをやってしまうと、どうなるか。

みんな知りたがる。

俺は、私は・・・。

そうなると困るんだ。

仕事でやってることだし、言葉の責任もある。

間もなく死ぬよ・・・って内容の人もいたけど、言えるわけがないし。

 

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簡単に便利に扱われる感じが、とても苦しい。

酒飲んで、ちょっと聞いて、「へぇー、そうなんだぁ」で終わらせられることほど苦しいものはない。

知った後、自分の内側へと向かう覚悟の無い人に、本気を語るのはどうなんだろうか。

言ったことが現実になったと慌てて連絡来ても、本人は話をほぼ覚えていないものだ。

何度かそんな経験をすると、話すことが嫌になってくる。

 

たった一人のことをリーディングするだけで、その周りの人たちも、同じく話してくれると思い、期待される。

興味の延長線上には、常に奥底に抱えている問題が浮上してくる。

みんな生きていることに対して「不安」を抱いている。

不安をいち早く払拭したい気持ちと、自分らしく生きたいと思う気持ち。

スピリットは常に問いかけているし、気づいて欲しいのです。

感情を言語として働きかけ、常に自分自身に問いかけている。

スピリットの思いを言葉にする責任はあると思うし、それには人生そのものを変えてしまうパワーがある。

だからこそ、一対一でしっかり話したいと思う。

誰しも自分の中に不安はある

その向き合い方、払拭の仕方、対処の仕方を知りたがる。

だから教える。

単純なことなのだけれど、教えた限りにおいて、きちんと向き合って欲しいし、行動に移して欲しい。

やるか、やらないかは当人の自由なのだが。

一度縁を結んでしまうと、魂の理にあることがある。

私は「盛り込み」と呼んでいるのだが、本人の未経験などで出来ないことは、手伝うか、代わりにやるという下支えをすること。

毎回、こちらで対処してもいいのかどうかを相手の魂や主護霊や主護神に確認する。

相手のカルマに触れないようにするのが霊性においての基本的なルール。

カルマとは、前世・今生の行いという意味なのだが、それに触れないようにするのは実に繊細なことなのだ。

自分と相手の縁にカルマ的要因があれば、それはこちらでも解消できる。

ただ、相手とその友達とか、パートナー間に至っては、こちら側の感知することではないのだ。

当事者同士が解決すべき問題であって、アドバイスくらいしかできない。

 

魂には経験値があって、古い魂ほどパワーもあるのだが、そうでない時もある。

それは、今生の自我の状態も関係するからだ。

いくら古い魂でも、今生の生き方次第ではパワーダウンしてしまう。

その陰には、魂が何世代にも渡って築いてしまった深いトラウマがあったりもする。

 

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観念を変える

私ごとですが、先日主護霊から言われたことがある。

 

「便利」の観念を変えなさい。

 

私は常に出来る自分で在ろうとしてきた。

誰に頼らずとも、自分の意志で切り開く覚悟を持って生きてきた。

能力は、確かに皆のためにあるとも思う反面、都合のよい使われ方はとても嫌だった。

基準に置いているのが、魂意識。

ある意味、とても頑固で職人肌と言われることも多い。

ところが、魂意識と自我意識は、自分の内で常に葛藤している状態だ。

共有する世界(いわゆる世の中)を変えてしまいたいと思うことも多かった。

それには、どうしたらいいか・・・なんて幻想を抱いている自分もいた。

考え方は支配的になってしまうし、通達型の命令口調。

魂意識の思いとは裏腹な自分に嫌気がさして、悩み落ち込むこともあった。

便利とは

 目的を果たすのに都合のよいこと。あることをするのに重宝で、役に立つこと。また、そのさま。「生活するのに便利な所」「便利な調理器具」「地下鉄ができて便利になった」
 あることをする都合やぐあい。「買い物の便利が悪い」
 大小便。通じ。

コトバンクより抜粋

なぜ、今になって便利について考えるのか。

というのは、自分の内に問題があって、瞬時にネガティブに転んでしまう地雷があるからだ。

いろんな人や神に便利に使われている気がする。

そんな風にものごとを捉えてしまう自分に嫌気がさしてしまったり。。。

もっと気楽に話してしまってもいいのかもしれんのだが・・・。

話したことは、相手の問題だし・・・。

人は裏切るもの

このレッテルが邪魔をする。

期待すればするほど、裏切られる。

だから、期待しなくなり、遠ざけて、和することを避けるようになった。

前世にも数々の経験がある。

思い出すだけで胸糞悪い思いが湧き上がる。

そのたびに「ゴルゴダの丘」が浮かぶ。

神に向かって、涙ながらに訴えたイエスの姿が目に浮かぶ。

イエスを異端とした存在たちの誹謗の数々を受け止め、痛みと苦しみのさなかにも「神よこのものたちを赦したまえ。まだ未熟者なのです。」と叫んだ姿。

これが出来ない自分がいる。

イエスの死後、イエスの周囲にいた人たちは、どんな思いで生き抜いたのだろうか。

それを考えると、胸が苦しくなる。

仕事としてのスピリチュアル

私は、スピリチュアルでお金を稼いでいる。

相手の魂のリーディング、主護たちとのコンタクト、霊的問題の解決などを主にしている。

ビジネスである以上、便利に使われていいものなのかもしれない。

相手に任せるという信念のもとに、それはありなのか。

相手の魂の状態は、大体は自我の壁に覆われていて、卵の殻の中にある感じだ。

その殻の中からの思いを汲み取ることは、かなりの霊力を使う。

殻をつくった自我の抵抗は、それこそ必死。

だが、そこを脱する思いに本気がない限り、変わることはまずありえない。

自分の自我を制することほど、自分として苦しく辛いものはない。

その本気に本気で応え、出来る限りの力を尽くす。

だから、「仕事」にしている。

ただ素直に受け入れる人もいるだろうが、それはとても稀な話だし、我々の力を必要とする人のほうが少ない。

便利の観念

人は楽するため、時間やお金などの節約のため、都合のよいサービスを求める。

スピリチュアルも一つの商品として考えたら、そうなんだろう。

社会の風潮としてある集合意識と捉えたら、家電を選ぶことと同じという人だっているだろう。

私自身、便利は大好きだ。

スムーズに事を運ぶために、影ながら努力してくれた人に感謝として、お金を支払う。

使い勝手の良いことに対して、影ながら努力してくれた人に感謝として、お金を支払う。

美味しい料理、ストレスのないパソコン、通信システム、電気、ガス、水道。

全て、何かを満たすためにある便利だ。

 

当たり前に使っているけれども、それをしっかり提供してくれている人たちがいてこそのこと。

見えない世界のことだからこそ、相手の心の中まで潜り込んで引っ張ってくる言葉だからこそ、「サービス」の一環で捉えてほしくないというのが、私の個人的な本音。

ただ、サービス精神旺盛な自分にも反省点は沢山ある。

できることならしてあげたい・・・という気持ちと、相手が受け取ることは、ズレているときがある。

それを便利に使われた・・・というのはこちら側の間違いなのだ。

意気揚々としてあげたことは、相手にとってありがたいサービスでしかないときがあること。

その見極めを怠った自分自身に問題があったということだ。

自分の世界観と相手の世界観は一致している部分とそうでない部分があって当然だということ。

 

「便利」について、自分の観念を変えていくにあたって、向き合ったことを連ねてみた。

もっと沢山、もっと深くまで考察し、嫌がる自分と向き合って、少しずつ「観念」を変える訓練をしている。

ほんのわずかな「気づき」と「教え」をもとに、真剣になればなるほど、出てくる問題。

こんなことを毎日やってます。

スピリチュアル・マネジメント・カンパニー

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