ものごとに対して、人は判断したがります。
判断は、何を基準にどう決めるか・・・なのですが、もう一方を断つという意味もあります。
どっちか決められないのを優柔不断とも言いますが、そういう場合って大いにあるものです。
そこで、判断は必要かどうか、という話です。
判断は分類
ものごとを「善か悪か」「正しいか否か」と分類すると、一体どうなるのか。
自分を「正しい・善い」とすれば、自分以外は、「正しくない・悪い」となって、いわば敵をわざわざ作ることになります。
意識の中で、常に判断していたら、自己防衛本能は働き続けて、疲弊してしまいます。
それは、心にとって大いなる負荷になってしまうのです。
ストレスの大きな要因の一つ
今の社会は、判断だらけです。
分類化が進んで、生き残るための攻防が繰り返されています。
○○が良ければ、●●を悪くして・・・。
常に判断を要され、心の中では「どっちどっち?」と余計な気を使ってしまい、あげくには選べないなんてことになります。
それでも、選択、判断を迫られてしまうことがあります。
すごいストレスになってしまいますよね。
定義、レッテル、説明、解釈、評価、分析、判断・・・。
これらのことは、社会では当たり前になっていることですが、自分の在り方を優先したとき、本当にそれが必要かどうかを考えさせられます。
幼少期から判断がついて回る
自分がそうしたい!!と思って始めたことを親から「ダメ!!」と言われ続けてきた子と、判断せずに自由にさせてもらってきた子では、大人になってからの生き方に大きな影響を及ぼします。
3つ子の魂100まで。
そんな諺があります。
幼い時期に、培った性格、信条、信念などは、年を経ても変わらない・・・という意味です。
本来自由でいいはずなのに、親や大人、社会の都合で植え付けられてしまったことは、心に深く根を下ろしてしまうのです。
参考ブログ
批判されて育つと、人を責めることを学ぶ 憎しみの中で育つと、人と争うことを学ぶ 恐怖の中で育つと、オドオドした小心者になる 憐みを受けて育つと、自分を可哀想だと思うようになる 馬鹿にされて育つと、自分を表現出[…]
思い切って、判断をやめる
そうするとどうなるか。
判断しないということは、心の中での攻防戦が無くなるということ。
すると、心は自然と穏やかになっていきます。
心が穏やかになると、ゆとりが持てるようになります。
判断をやめてみた時、今までよりもずっと心が軽くなるのです。
無心の境地に入る
判断をやめた途端、騒がしかった心の攻防がなくなって、無心(魂のある場所)に入りやすくなります。
その場所は、全てが一体で在り、共存している場。
存在する全てに理由があることを知っています。
自分の立ち位置を観察することが出来る場でもあります。
その本質である自己との対話は、人生を有意義にさせてくれます。
どんな場合においても、本質的な観察眼を持っているか否かでは、大きな差があるものです。
判断は時に必要?
人生における決断を判断というのならば、必要かもしれません。
自分の在り方を見つめるというのならば、判断は必要ないとも思います。
自分自身を豊かにしたいのならば、思考や心の判断をやめて、心にゆとりを持ち、広い意識で在ることが大切です。
共有場である社会の中での判断は、TPOがあるように感じます。
自分の人生は、自分自身で選択できるもの
定義、レッテル、説明、解釈、評価、分析、判断・・・をすることなく、ただ決めることは難しくないのです。
自分がそうしなければ、他からそうされることもなくなるものです。
宇宙の理ですから。