人はある程度の決まりを作って、それに従うことで日々を安定させようとする。
朝のルーティン、モノをしまう場所、食事や風呂などの時間割など。
その行為を当たり前化して、自分なりの流れを作って、同じことを繰りかえすことで、安心を手に入れる。
自分に変化を持たせたい。
何かの変化を求めている。
そんな人は、まず、このルーティンを崩してみると、今までの自分が見えてくる。
崩すことが出来る人は、新境地へと向かいやすい、いうなれば、こだわらずに進める。
崩すことを恐れて、あれこれ思案して、安全を確保できるまで動かない、動けない人は、どっぷりと自分の作ったルーティンに安心していたことになる。
そういう人は、ひとつ前のブログにも書いたけど、出番が来ているのに、思い切れずに逃してしまいがちなのです。
ルーティンは、間違いとか、同じ繰り返しがいけないと言っているわけではない。
「変化」したい欲求の源の感情がどんなものかによる。
ルーティン崩し
①いつもと違う朝を迎えてみる。
②いつもと違う道を通って、目的の場所へと向かってみる。
③いつもと違う服装を心がけてみる。
④いつもと違う食事をとってみる。
など、いつもと違うことをしたとき、自分の中にどんな感覚が生まれるか。
無意識に同じことを繰り返していたりする場合は、パートナーや同僚にインタビューしてみるのもいいだろう。
このルーティンは、長年染みついてしまった「思考回路」も含まれる。
ある種のパターンを作って、楽に過ごしたい欲求を追及した結果なのだ。
楽とは何かと言えば、安心できる自分の行為というわけだ。
決して、「楽しむ」ことを優先しているわけではない。
ステルス・ストレス
多少のストレスがあっても、人は繰り返しの安心を選ぶ場合がある。
実のところ、ストレスには軽い重いに関係なく、蓄積してしまう「ステルス性」がある。
なんというか、アレルギーと似ているのかもしれない。
それを良しとして、食べ続けた結果、許容範囲を超えてしまい、アレルギーになってしまうようなもの。
変化を促すサインの一つに、ステルス性ストレスの蓄積からの危険信号があったりする。
ある一定のストレスが精神に溜まってしまうと、精神はそこを破壊して、再生を試みようとする。
これは自然の働きと同じなのです。
こんな話がありました。
以前、私の所に通っていた方のこと。
40代の男性で、ある日、我が家に来るなり、こんなことを言いました。
「通勤途中、目の前の男性が胸を押さえて、突然倒れてしまった。」
倒れるまでは、普通に新聞を読んでいたらしい、その男性。
余りの突然の出来事に周りは騒然となったそうです。
その光景を目の当たりにした彼は、その時、「この人の姿は僕の未来を映している」と感じたそうです。
毎日、深夜に及ぶ残業、滅茶苦茶な食生活、常にある睡眠不足・・・。
過労で倒れることもなく、寝不足も当たり前化しての惰性で仕事をこなす日々。
フラフラの状態で帰宅して、深夜の食事。
糖尿病などの生活習慣病の発症・・・。
彼は、この体験を機に、きっぱりとその仕事を辞めて、静養することに決めました。
わかりやすいサインと協力してくれた魂の働きによって、彼は大切な気づきを得ました。
その気づきを行動に移すことが出来て、ある意味一命をとりとめたのでした。
これも一つの変化の促しです。
まだ大丈夫・・・いつも通り事を済ませばいい。
そうやってルーティンにこだわっていたら、彼は命を無くしていたかもしれません。
ある日突然キレる
ストレスは無意識なほど厄介なものです。
吐き出しようにも、自覚がない場合があるのです。
吐き出せているうちは、まだいいのです。
寡黙に仕事をこなし、いつも通りにしていた人が、ある日突然キレた。なんて話もよく耳にします。
当たり前化する原因
サラリーマンなら、毎月の給料、生活の安定、養う子供がいるなど、様々な理由があるでしょう。
お母さんならば、子供の学校の時間を軸にした生活環境。
日々、忙しく立ち回る生活の中で、「生きている感覚」は徐々に薄れてしまっている人も多いと思います。
それは、「生活するため」の仕事をこなす毎日で、「生きるため」の仕事が出来ていないから。
生活と生きるの違い
生活は自分を含めた家族など共有した環境を安定させることが目的になりがち。
生きるは、自分らしさや自分の思いを表現すること。
居酒屋によく行っていた頃、隣の席のサラリーマン風の方々が、数人で愚痴を言い合う姿を何度となく目にしました。
生活が厳しい、給料が安い、家族が冷たい、俺は犠牲者だ・・・。
可哀そうでした。
定年を迎えるころには、ガチガチになった頑固者になっているだろうなぁと思ったりしたものです。
吐き出す場としてはいいのだろうけど・・・。
自分の中にある「当たり前」にしてしまっていること。
今一度、見つめ直してみたらいいと思います。
当たり前には、「感謝」できないものです。
なぜなら、無難な道だから。
難が無く、安定した暮らしを得るために、魂の思いを踏みつぶしてしまっては、人としての在りようなんてどうでもよくなってしまわないかな。
「感謝」は、ありがとう。
有り難しともいいます。
難が有って、苦労したからこそ出てくる「心の言葉」だと思います。
変化を求める自分の姿と、無難に生きゆく自分の姿。
どっちも選択肢でしかないと思います。
どう選択するかは、「自由意志」なのです。