人生~楽ありゃ苦もあるさ~♪
以前にも書きましたが、人生には3度は変化の時期が訪れます。
より大きく成長するためのことなのですが、成長の段階と同じくらい、自分を振り返り、見直す段階があります。
「自分は大丈夫!!」そう思ってやり過ごす人。
「なんてちっぽけなんだ・・・」そう感じて、世界を変えていこうとする人。
どちらも自身の在り方だと思います。
ちっぽけと感じるのは
あらゆる場面が変化していく中、未来へと向かう視野が突然変わって見えたときに感じるものです。
私自身、大きな変化の途中でインドに訪れた際に、見渡す限りの地平線を夕日と共に眺めた時、「俺・・・ちっぽけだ」と感じました。
自身を卑下するのではないです。
自分のあり様を正確に捉えることが出来た瞬間として、今も心の中に大切にしまっています。
帰国後、本格的な修行に入るのですが、「ちっぽけな自分」を知っておいて本当に良かったと思えたのです。
いい意味で開き直る
それまでの自分は、「無知は恥」としていました。
霊的なものと対峙するにあたり、完全に無知な自分がいたのです。
それを恥としていては、学ぶこともままならない。
あらゆる本を読み漁り、分からない事は、わかる人に聞いた。
無知でちっぽけな自分をいち早く成長させるために、努力とかいうレベルではないくらいアクティブに動いたものでした。
学んで知りえたことを実践し、どういうことか検証していく日々は、とても有意義で楽しかった。
また、習得したことは直ぐに誰かに伝えた。
伝えている中で、新たな発見があれば、すぐに調べて、知っているであろう人に聞く。
この実践を繰り返していくと、次の段階へと進むことになるのだが・・・。
2度目は魂の存在を知った時
魂の存在を肌で感じた時、その意識の広大さ、目的の果てなどを一瞬で感じてしまい、自分がちっぼけに感じた。
沖縄の方と出会い、魂について教えてもらった。
入魂と言って、魂を起こす儀式を経たら、夢がとにかく忙しくなった。
心の中に隠している「不安・恐怖」と夢の中で向き合わされる。
心の中に隠し持つこの面も、魂の領域だからだ。
良いも悪いも、魂は全て包括した本当の自分であるという認識が湧いて出てきた。
不安や恐怖は自分の創造
一つの感情として見た時、不安・恐怖という感情も、魂の言語となる。
誰しも、不安・恐怖は嫌なものとして目を背けたくなるものです。
しかし、魂の言語として見たら、不安・恐怖も、とても大事な表現の一つなのです。
見方を変えると、まるで違ったものとして見えてくるものなのです。
「嫌だ!!」には、必ず理由があるどんな人でも「嫌だ」と思うことってありますよね。そもそも、なぜ嫌なんだろうか。私は、散々「嫌なこと」と向き合った結果、「そんなに嫌じゃなかった」と気づくということが沢山ありました。[…]
人は、不安があればあるほど、自由を失い、硬く凝り固まります。自分が何に不安を感じているかを理解できずに、漠然と不安になっている場合だってあります。不安のメカニズムを理解して、心の中を整理して、不安そのものを手放すことは出来る[…]
3度目は圧倒的な差を感じた時
我ながら無敵状態にすぐなってしまうのだ。
完全に開放出来ているときは、ある意味「敵なし」の状態になる。
ところが、「上には上がいる」と本当に知った時、自分のちっぽけさを痛感するものです。
あらゆる霊と対峙し、人間とも対峙してきたけど、天狗になりかけていた自分を戒めるかのように現れるスーパー人間。
ゆとりの中に生きて、何でも受容して、何でも知っているし、時空を平気で超えてくる。
それでいて「愛」に溢れて、一緒に過ごすだけで、ただ幸せを感じられる人。
私にとってのバーバがそういう存在だ。
時に厳しく、時に優しく、ただ在るだけで膨大なエネルギーを放出している。
いい気になって調子こいているとバーバが変装して夢に現れる。
そして、しっかり戒めてくれるのだ。
戒められている時の自分は、悔しさもあるけれど、なぜだかとても嬉しい。
そして、ちっぽけな自分に戻って、歩み直せる・・・といった感じだろうか。
3度のちっぽけを超えて
「在り方」を追求していけば、やがてたどり着くであろう「神人合一」の境地。
魂を知り、自我を知り、宇宙の真理を問い、存在として証していくのが人生だとつくづく感じる。
しかしながら、神人合一の場所に居続けることが難しい。
どんな人も、何度かは経験しているだろう。
魂と自我が一体化して、何でもできると思える無敵状態。
いわば、そこが神人合一の感覚。
尊敬するバーバは、常にそこに在る。
バーバにも、ちっぽけな自分を感じていた頃があったのかなぁ・・・。
そうつぶやくと、
『あったから、今ここに在るのじゃ…』と聞こえてきた。
ちっぽけでOK
「ちっぽけな自分」を感じることは、登山して登頂にたどり着いても、次の頂が見えてくる感覚に似ているのかな。
慢心せず、常に見据える場所があるという教えでもあるのかもしれない。
ちっぽけだからこそ、感動もできるし、より大きな、より高い、より深い意識に向かおうと出来る。
広大な宇宙を創造した神は、自分に似せて人間を創造したといった。
人間の中は、全てが可能性であるわけです。
自分で創造した世界をぶち壊して、新たな世界に踏み出そうとするとき、ちっぽけな自分を肯定出来ていれば、何度でもやり直せます。