鏡を求めて彷徨う
自分自身を散々探し回った挙句、途方に暮れてしまうことがあった。
「どうなりたい」ばかり意識して、自分の鏡を探す。
理想の自分を演じてくれている人を追い求めて、いろんな世界に飛び込んだり、出会ったり。
そのたびに影響は受けるものの、目の前の最高の自分と、今の自分を比較してしまったりして。
プロセスを大事にする
最高の自分に到達するためのプロセスは、山登りと同じ。
必死に駆け上って、頂上に立った時、目標だった最高の自分になれているだろうか。
答えは、そうしてきた自分にしかわからないだろう。
いろんなことを考え、スキルアップして、そうなろうと決めた自分に負けないよう頑張る。
とにかく高みを目指して、ひたすら努力し続ける。
ふと、なんか疲れてしまった。
自分の中に疑問が湧いて、本当にそれが最高なのか・・・。
そんなとき、ある本と出合った。
「バーバの教え」
その中にあるフレーズを読んで、なりたい・・・から在ろうに切り替わる瞬間があった。
そのフレーズとは
すべてはつながっている
すべてのものがその他すべてのものの面倒をみている
すべてのものが全体と調和している
だった。
自分自身を外側に投影するのではなく、自分自身の内側に備わっているもの。
そう意識が変わった瞬間だった。
夢を追いかけ、必死に努力してきた自分が居て、もがいて、苦しんで、悩んで、からだを壊して、それでも頑張って生きてきた。
人生は苦悩の連続だ・・・くらいに、思いが心を駆け巡り、自分自身を痛めつけて、鞭打ってきた。
神を恨み、人を遠ざけ・・・。
そもそも、自分はどう在りたいんだ?
自分を大切に、人を愛し、喜びを共有して、楽しく生きる。
始まりは、これだったことを思い出した。
これこそが自分が目指す最高の自分ではなかったか。
外側に意識を持って行ってからというもの、比較し、競争し、愛とは裏腹の憎しみや恨みを抱き、人を支えることに苦痛を感じ、共有などできず、辛い生き方をしてきたと実感した。
いろんな本に書いてある「ただ在る」
その意味を、ただ在るとは真逆に走った結果、やっと理解できた。
吾在り。
吾。
心の奥底からそう思ったとき、「悟り」が生まれるのか?
吾、宇宙と胴体也。
吾、宇宙に尽くしたり。
吾、すべてと調和したり。
恍惚ともいえる、眩い光の中に「吾」が在り、光は「吾」が発するものであり。
人は光の存在であると言った聖者の言葉。
その目線が理解できた。
あとは、在り続けるだけ。
目標とした瞬間にそれはなり、欲した瞬間にそれは手に入る。
イエスが言った「汝、求めよ。さらば与えん。」
その通りだ!!
道に迷い、自分が見えなくなったときに思い出してほしい。
どんな人の中にも、必ず、在り方は存在する。
あなたにはあなたなりの在り方があるはずだ。
ふたをして、閉じ込めているだけだから、開放してあげたらいい。
同じ努力をするにも、スキルを得るにも、在り方をしっかりと自分に根ざしているだけで、生き方が違う。
そう願って、そう求めて、ただ在るだけで、引き寄せられてくる。
必要なものは、向こうからおのずと近づいてくる。
競争することなく、比較することなく、憂うことなく、ただ学び、経験できる。
許すことも、与えることも、叱ることも、励ますことも、ただ素直にできるようになる。
これでいいのだ。。。