量子の世界では、「それ」を意識したとき、「それ」であることが出来るという。
人を形づくる細胞があって、その細胞を構成する分子があって、原子があって、元素があって・・・。
ミクロの世界では、極めて小さな何かが、何かの思いに従って、形を作っている。
私は、2歳のころから中耳炎を患い、今では、両耳の鼓膜がない。
通常、鼓膜の振動が脳へと信号を送り、音として認識され、それがそれであるとしている。
ところが、鼓膜のない私は、普通に聞こえる。
中耳炎も48年患い続けているが、生きていくのに支障はない。
今では、病気である認識ではなくなっているのです。
鼓膜はなくとも、音は聞こえる。
言ってしまえば、鼓膜というセンサーを放棄して、別の機能で代用しているだけ?
病気自体、「それ」を「それ」としているだけだとしたら、やめることが出来るんじゃないか?
医師は病気を治せない?!
ある医師は「医師は人の病気を99%、治すことが出来ない」と言いきった。
病気は自分で作り、そう思い込んでいるのだから、自分以外、治すことは出来ない。
医師は治すのではなく、手伝っているだけだと。
いろんな薬が出回っていて、日々研究がなされているが、その薬自体、「それ」を「それ」でなくするためのものだという見方もできる。
つまり、「ごまかし?」「まやかし?」
義父の話にこんなことがあった。
義父がまだ小さかったころ、よく腹痛になったそうだ。
そのたび、祖母から小さな紙を渡され、丸めて飲み込むと腹痛は止まった。
ただの紙だ。
それには、「まじない」が為されていたようだが、それでも腹痛がただの紙で治るのが不思議だったと。
こんな話もある。
頭痛に悩む女性に、「これは頭痛の特効薬だから」と何かの粉を飲ませた。
長年の頭痛に悩んでいた女性は、それを心から信じた。
すると、頭痛は治り、女性は「どんな薬だったのでしょう?」と聞いた。
「あぁ、あれはただの小麦粉だよ。」
全ては心因性?
ある意味そうだと言い切れる。
ただ、心の範囲を自分自身がどこまで感知出来ているかによると思う。
心には陰陽があって、みたいものと、みたくないものとある。
みたとしても、認められるもの、認めたくないものとある。
認めたとして、それが自分のせいだと出来るもの、出来ないものとある。
自分のせいだとして、それを抱きかかえるもの、捨て去ろうとするものとある。
抱きかかえたとして、解決しようとするもの、仕方ない・・・と維持するものとある。
問題は、「ないもの」としてしまうことだ。
実際は「あるもの」なのに、「ないもの」としてしまえば、全て無意識のゴミ箱に入る。
ゴミ箱は、運氣も氣力も奪う自滅作戦の中核。
どれだけの「あるもの」がゴミ箱に入っているか想像してみたらいい。
結構な数の「あるもの」が「ないもの」として入っていないかな?
特殊コード
いろんなジャンルでいろんな音楽がある。
関ジャニ∞の出ている番組「関ジャム」という番組が好きでよく見ているが、音楽をいろんな見解でアプローチしてくれるから実に面白い。
楽曲に印象を残すための手法として、あえて特殊なコードを入れると、気を引いて印象に残るという。
スムーズは何事も気持ちいいものだが、スムーズの中にほんの僅かな不協和音を取り入れることで、違和感が生じて、その違和感が心のどこかに引っかかって、何とも言えない気持ち悪さを生むのだが、それが狙いの楽曲づくりがあると。
このことが、病気と全く同じ原理なのではないかなと思ったのだ。
スムーズ=健康
特殊コード=健康でなくする原因
違和感=気づかせ
で、どうする? と言う話。
楽曲ならば、それでいいのだろうが、身体となるとそうはいかないです。
自分が生み出した「特殊コード」を見つけて、スムーズにして行こうとすれば、健康になるわけだ。
この特殊コードは、いろんなところから出てくる。
主に「記憶」だ。
記憶の中には、「いい思い出」と「嫌な思い出」がある。
「嫌な思い出」は、心で特殊コード化されて、時々、意識の中に出てくるとしたら・・・。
間違いなく、実生活の中に「違和感」として存在しているはずだ。
「それ」を「それ」と気づかないまま放置していて、「スムーズじゃない!!」と心の中で叫んでいるとしたら?
このことが「病気」の大きな原因なのではないでしょうか。
病気は自分で治せないという幻想
病気は自分で治せないと決めてしまっているのは誰か?
自分ですよね。
病気になると気が滅入り、弱気になって、さらに病気を悪化させてしまう。
逆に、病気であっても、笑顔で活き活きとしていたら、いつの間にか病気が治っていたり。
そもそも、病気であることに気づいてなかったり。
つまり、「病気」をどう扱うかで、「死」に向かうか「生」に向かうかが決まるわけです。
人には「自然治癒力」が備わっています
自然になぞらえば、治癒していくよ~って法則みたいなものです。
それには、自分の中の不自然を見つけることが大事なのです。
それを見つけるのに大切なものは「感情」です。
自分の本当の感情に耳を傾けること。
感情は自我の作り上げたフィルターによって歪められてしまうこともあります。
本当は「怒り」で一杯なのに、怒りを出すのはいけないことというフィルターによって、「我慢しなきゃ」という壁を作り上げ、「怒り」を心の中に閉じ込めてしまえば、心の中は怒りの炎で燃えつくされ、やがて病気となっていくのです。
本当は「悲しみ」で一杯なのに、悲しい思いは嫌いだというフィルターによって、「泣かない」という壁を作り上げ、「悲しみ」を心の中に閉じ込めてしまえば、心の中は悲しみに溢れ、涙で水浸し、やがて病気になっていくのです。
参考記事
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自分が何を感じ、どう受け取って、どう行動しているのか感情には、外的要因と内的要因とあります。見ている視点が外的要因。外的要因を受け取る際に感じたことが内的要因。それをどうしようとして、行動しているか。[…]
病気をやめるという覚悟
いつまでも病気でいたいなら話は別ですが(理由があってそういう人もいます)、病気自体が幻想であるならば、幻想をやめようと決心さえすれば、回復または治癒の方向性が生まれるのです。
回復、治癒に必要な「モノ、人、場所、エネルギー」は、自分の周りにあるし、いる。
自分が決心することで、世界は自分を助けようと働き始めます。
決心したのち、目に入ってくるものごと、耳に聞こえてくるもの、直感で閃いたことなどに意識を向けましょう。
世界は自分自身を丸ごと映し出してくれる「鏡」ですから。