前回、死についての考察を書いていたら、先祖のことが出てきた。
そういえば、先祖供養って言うが、何をどのように供養するのか?
そもそも、供養って何なのか。
私自身、スピリチュアルかじりたての頃、とても頭を悩ませたものだ。
どこぞのご先祖の苦悩から供養の是非を問う
霊術を本格的に始めたころ、先祖が子孫に供養されないから障るという出来事にあった。
ごく当たり前に有ることなのですが、供養されないってどういう事なのか、疑問を抱いた。
私は、供養を知らず、親にも教えて貰ってはなく、強いて言えば、墓に参って手を合わす程度だと思っていた。
数々のご先祖たちと話をしたり、主護霊と対話したりして、供養の本当の意味を知ったのです。
供養とは
コトバンクによると
① 死者の霊に供え物などをして、その冥福を祈ること。追善供養。 「亡父の-をする」② 仏・法・僧の三宝を敬い、これに香・華・飲食物などを供えること。
辞書にこう書いてあれば、言葉通りに捉えるだろうなぁ。。。
先祖たちが望んでいることは、
モノではない。供え物があっても食ったり飲んだりできない。
冥福を祈ることは嬉しいらしい。敬う気持ちも嬉しいらしい。
中には、線香の香りが好きだという方もいた。
何よりもして欲しい事は、生きている子孫が自分たちの為せなかったことを為すことだという。
これもいろんな意味を含んでいまして・・・。
先祖にもいろんな方がいます
低俗で欲張りな方と、無欲でこの世に未練がなくなった方とでは、供養の在り方が変わってくる。
生前憎らしかった人の一族とは付き合うなとか。
逆に、仲直りして欲しいとか。
この世を死して旅立つと、自分の人生を振り返ることから始まるという。
49日間は、この世において世話になった方々へのあいさつ回りをするというが・・・。
未練タラタラで亡くなって、いつまでもこの世を彷徨っては、何度も苦渋を味わう人もいたり。
とっとと挨拶をすませて、次の段階へと進む人もいたり。
とにかく、人の数だけいろんなことがあるわけです。
「供養しろ」と言われてすることじゃないし・・・
私としては、そういうのがとても面倒だったので、自分がその先を知って、この世において為してしまうという行為に出たわけです。
先祖を供養するというより、教化するという考えで、霊界の中にシステムを投入したりして。
それがうまく回っているから、先祖にとやかく言われずに、好き放題好きなことだけやって生きていられます。
もちろん、システムは神々と相談しながら、多くの魂の力を借り、智慧の神のアドバイスの下、数年かけてやったことですが。。。
先祖自体が供養を必要としなければ、現世に生きる子孫たちは、冥福を祈るだけでOKだろう。
ところが・・・それでも血は血です。
先祖から続く因果は、自分の源流ともいうべき問題ですから、功を奏する場合と仇を為す場合とあります。
それを自分で見つけて、乗り越えなくてはなりません。
結果・・・供養していることになったわけです。
先祖を供養するのではなく、自分自身を供養することになったのでした。
システムのお陰で教化された先祖から教えて貰うことも多くなりましたが・・・。
先祖供養の是非
お墓参りが供養の全てではない。
その行為自体を否定するわけではないが、それが供養している事だと思ったら大間違いだということ。
先祖からなる血の問題を自身でクリアーしていくことが本当の供養。
先祖が為してしまった因果を理解し、意識して取り除き、自分として在ることが前提。
そもそも、先祖があって自分があることに対して、感謝する気持ちでいることが大事。
心の中で先祖と共に在り、問題が生じても共に乗り越えていく信頼関係が大事。
仏壇やお墓に手を合わせて、冥福を祈ることも大事。
事あるごとに、先祖に感謝を送ることも大事。
そういうことが当たり前にできていたら、供養を意識することもない。
昨今の供養の意味は、仏教に準えた教えの一つだと思う。
供養の本当を知れば知るほど、生きている人の課題も明確になるし。
人として、魂としての在り方にも通じる部分だと思う。
ちなみに私は、先祖に対して、墓参りもしないし、お経もあげないし、線香も焚かない。
たまーに、母親の説教があるけどねぇ・・・。(故人)
あ~耳が痛い!!