年末恒例の魂の駆け込みヘルプで連日忙しい。
魂的に、一年の締めくくりには、その年の年始に掲げた目標をしっかりクリアしようとする。
しかしながら、この目標は、祈願したことや自分が決めたことなのに無意識の中に追いやってしまったもので、忘れていることが多かったりします。
何を犠牲にして何を成すか
今年は、そんな課題を抱えている魂さんが多い気がする。
これは実に難しい問題だ。
一見、トラブルに見えても、それが自分の内なる鏡としての相手だったり。
誰かが目標をこなしていく姿そのまんまが、自分を映してくれている鏡であったり。
常に自分の内側を意識できている人は、気づくのも早いだろうが・・・。
人のふり見て、わがふり直せ。
他人の行動を見て、良いところは見習い、悪いところは改めよということ。
これに気づく人は、きっといろんなトラブルにあったとしても、その相手の姿の行為行動が、自分の姿であることに気づけるだろう。
仮に気づいたとしても、その相手を認めなければ、自分自身を直すことはしないだろう。
人の世も大篩にかけられているのか?
社会を見ても、格差社会となっていっているように感じる。
格差とは、生活水準を基準としているのだろうけど、この二極化はスピリチュアリティにもあり、その基準は神の篩にある。
神々が言う篩にかけるとは、次のステージに行くものと、そうでないもの。
これはなかなかシビアな話だ。
自分以外の何かに対する貢献度が基準?
自我と魂の意識の接点?
ひと月ほど前に来た意味深なメッセージ
いよいよ立て直す。
フルイにかけられる魂たちがおるぞ。
見極めて接することぞ。
お主らの仕事は忙しくなるぞ。
心しておけよ。
受け取ったはいいが、自分が何をするのかのイメージは薄かった。
ここ数日の出来事や、一年を通してのことや、この五年くらいを通してのこと。
色々振り返ってみた時、掴みかけてきたと感じる。
自己犠牲を言っているわけではない
精神性の誤解も多いと思う。
この犠牲は仕方ないとか、必要なモノのために犠牲は付きものとか。
例えば、
お金を得るために、時間と意志を犠牲にする。
友を得るために、自分の思いを犠牲にする。
愛を得るために・・・
何かを得るために、何を手放すかということ。
少しだけ考え方を変えてみたら、犠牲より手放す方が気持ちも軽い。
心のゆとりを得るために、余計な考えを手放す。
未来創造を得るために、過去の思いを手放す。
笑顔を得るために、哀しみを手放す。
許しを得るために、嘘を手放す。
言い回し、感覚の捉え方次第
犠牲と言うと、重たいイメージがあります。
確かに、犠牲となっている部分も多いかもしれないけど、大切な何かを得るための犠牲をどう捉えるか。
犠牲は
これだけしたのに。
あんな思いをしたのに。
そんな思いが心を巡って、後悔を残し、ともすれば、怨恨へとつながりかねない。
自分から他者へ、他者から自分への影響。
想いの伝達。
愛するが故、愛情がもつれたり。
言葉の理解がすれ違い、誤解を生んだり。
感情を素直に出せなくて、相手を傷つけたり。
何かを得るために、何を手放していれば・・・。
自分の本当を得るためには、自分の本当ではないことを手放さなきゃならない。
それは犠牲ではない。
改める意志だと思う。
偽りの自分をいくら演じても、自分自身を傷つけるだけ。
それでも、偽りを演じ続けるのは、いったいなぜなのだろう。
相手を想って?
嫌われたくないだけ?
どんな自分を守ってるの?
自分を守るための嘘が、他者に映ってはじめて気づく自分の姿。
嘘や虚言で塗り固められた自分の殻を破る勇気。
誤解していたことを認める勇気。
すれ違いに気づいて、理解し合おうとする勇気。
どう足掻いても、最後は認めることになる。
今の自分は、自分が創造した結果でしかない。
今置かれている自分の立ち位置。
今置かれている自分の状況。
繰り返し思い考え続けている何か。
結果を変えたければ、自分自身の考え、思いを変えていくことです。
何かを犠牲にしているつもりが、実は、心の中で自分自身を闇に葬っているだけだったり。
本当の自分は、どんな自分なのだろう。
本当の自分は、何を求めているのだろう。
一度立ち止まって、大地に足をつけて、感じてみるといいと思う。