正しさの呪縛とは
「正しい」と握りしめていることが自分の心を縛り付け、苦しいを生み出していること。
正義は勝つ!!
悪を駆逐しろ!!
戦争や争いごとの大儀名分によく使われる言葉・・・。
フランス革命の立役者である「ジャンヌ・ダルク」も正義を掲げ、フランスを独立へと導くのだが・・・。
映画の中のジャンヌ・ダルクは、神から問われます。
『人を殺すことが正しいことなのか』
革命を起こす側としては、それ以前の政府や政治に対しての不満を解決して、新たな世を築こうとするわけですから、それ自体は「正義」として扱います。
『おまえは人殺しに過ぎない』
ジャンヌ・ダルクは、『私は間違っていない!!』と神に抵抗するのですが、人殺しを正当化しているに過ぎないという神からの目線もジャンヌの中では正しさとしてあります。
そもそも、「正しい」の定義は何かってことです。
時代背景、文化的要因、価値観、考え方次第で、「正しい」の在り方そのものが違ってくるわけです。
心のあり方も同じ
苦しみを生むのは、「正しい」と思っていることがおよその原因であるのです。
世の中には、秩序を保つために法律やルールがあります。
また、道徳観念、モラルといった人としての当たり前としていることもあります。
その陰には必ず「正しさ」が隠れていますよね。
ルールを守るのが当たり前、人として当たり前・・・。
当たり前は「正しい」のでしょうか?
みんながそうしているから「正しい」のでしょうか?
そう思っていることが、「正しくない」ことをしたときに苦しみを生むと思いませんか?
「正しさ」を疑ってみる
自分の内側に握ってしまった「正しさ」を疑ってみたとき、発見があったりします。
自分の価値観や観念の中に、「正しさ」は、たくさん練り込まれているもの。
その「正しさ」を疑った瞬間から、そうではない新しい価値観が生まれだしてくる。
これが「気づき」に繋がって、発見に至るわけです。
内面にこびり付いた「正しさ」を疑ってみると、実に柔軟な答えが出てきたりするもの。
これが正しいと思い込んで、そうではないと気づいたときのショックも、実は恐怖の対象なのです。
恐怖を回避しようとして、また「正しさ」に固執する。
こんな葛藤を日々繰り返し、「正しさ」とは程遠い「苦しさ」を味わい続けているとしたら、どうなんでしょうね。
「正しさ」は「〇〇してはいけない」
よくよく考えてみると、正しさとは、何かをしてはいけないという観念だったりします。
してはいけないことをするのは、「悪いこと」として扱ってしまいます。
無遅刻無欠勤が正しさであるならば、遅刻や欠勤はしてはいけない対象になりますよね。
風邪をこじらせて休みたいけど、休むことは悪いこと・・・なので、無理して苦しい思いして出勤したり。
「殺生をしない」ことが正しさならば、殺虫剤でゴキブリをやっつけるのはしてはいけないこと。
「迷惑をかけない」のが正しさならば?
「男は泣くものではない」が正しさならば?
「女は従うもの」が正しさならば?
「借金しない」ことが正しさならば?
出てくる出てくる。
自分の内面にある、この「正しさ」が自分の可能性をひとつずつ摘んでいるということもあり得ます。
可能性が削られれば、できることが減る。
また、正しさを武器に支配したり、いじめたり、ハラスメントを生んでいたり。
誰かが正しければ、誰かが悪くならなければならないのが「陰陽の法則」。
自分の中でも、陰陽の法則は働き続けています。
「正しさ」を求めるばかりに、「正しくない=悪」を作り上げてしまう。
正しさの呪縛のまとめ
泥棒や殺人など「悪事」の正当性を言いたいわけではありません。
自分の中にある「正しさ」=「してはいけない」という方程式も見方を変えたらどうなんだろうか?ということ。
「正しさ」で覆ってしまった価値観や観念を見直して、自分が自分にかけてしまった呪縛を解くことで、新たな発見、創造的な未来が垣間見れればいいことだと思います。
善悪の観念を超えたものの見方ができれば、自由度は確実に増しますから。